瑞蓮寺の縁起

 

「百足屋町今むかし」より

当寺の建立は、慶長元年(一五九六年)であり、初代住職は 浅井寿好(法名寿幸)である。寿好は戦国時代に近江の国(現在の滋賀県東浅井郡一帯を治めていた大名、浅井長政(一 五四五〜一五七三)の一族浅井喜八良(一説に長政
の子喜八郎)の子である。
 「姉川の合戦」にて浅井長政は織田信長の軍勢に壊滅状態にさせられたので、一族の菩提を弔いまた争いのない世の中 の実現を念願して右の者を琵琶湖経由で京へ逃がしたという事である。そして、縁のあった徳正寺(冨小路四条下ルに現 存)を頼り、出家して一宇を建立した。
 その初代住職寿幸は寛永十四年(一六三七年)に没している。初めて寺を建立した場所は、堀川通三条下ル東側 であり、堀川に面する地であった。 以来、三百四十年余り十五代に亘りこの地にて寺を継いできた。二代目寿源、三代 目寿傳以降、四代目圓爾から十四代目圓至までは代々「圓」の字を法名に冠した。
 中でも第十二代目の圓順(明治元年没)は本山にて四度講義をし、幾多の書物を著し、本山の嗣講(大谷派の学階で講 師に次ぐ位)となった。圓順の蔵書は膨大なものであり、後述の強制疎開のために大谷大学へそのほとんどを寄託した。
 現在「瑞蓮寺文庫」として七三〇部三千冊余りが人学図書館に蔵されている。 昭和十九年、十六代住職春榮(昭和六 十年没)の時、京都市の戦争疎開政策により、堀川三条下ルより移転し、一時錦小路新町西人ルの民家を寺とし、その後 縁あって昭和三十一年に現行の新町通蛸薬師下ル百足屋町に移転した。
 ここには室町の商人松沢庄七の屋敷があったが、松居家が名古屋へ移転する事になり、当寺がそのあとを譲り受け 松居家の邸宅を寺の庫裏としてそのまま使用している。昭和四十年には表蔵の土地に本堂を建立した。
 さて松居庄七について少し述べねばならない。室町通錦小路北(元明倫小学校内側)に「かねしょう」の屋号で半襟を 商い大成功をおさめた松居庄七は、また熱心な真宗門徒でもあったので、本山である東本願寺より阿弥陀堂門の新築寄進 の打診があった時これを快く引き受けたと伝えられている。明治四十四年(一九〇四年)竣工の現在の門がそれである。  ちなみに、先の阿弥陀堂門建立の際、棟梁は本山側の予定していた者ではなく、松居庄七は京都の宮人工、三上古兵衛 を指名した。その所為か、この阿弥陀堂門は東本願寺の諸殿の中でも他の建物と少し趣を異にしており、重 厚な中にも京都の職人の手になる精緻な技が施され、犯しがたい風恪を漂わせている。
 今、当寺が庫裏としている建物も大正七年(一九一八年)に同じ棟梁の三上氏によって建てられており、現在九十四年 目にさしかかっている。
 尚、現在のこの上地は、江戸時代初期の豪商茶屋四郎次郎の邸宅跡といわれる。
 当寺は真宗大谷派(東本願寺)に属し、いわゆる門徒の寺だが広く地域に開かれた寺としても今後在り続けたいと考え ている。

第十八世住職 浅井 仁麿

 

 

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